公認心理師

表題の件ですが、いままで心理職の国家資格化の動きはあったのですが、ながらく実現せずにました。それが2015年9月9日に公認心理師法が国会で成立し、2017年9月15日に施行されたことで、2018年9月に第1回の試験が行われます。
ところで公認心理師の受験科目に「関係行政論」という科目があり、主に心理職をとりまく法律が出題されるということです。これまであまり私が触れてこなかった分野なので、遅ればせながら勉強しなくてはいけないと思い、テキストを購入しました。
テキストには法律がどのような歴史を経てできあがっていったのかの概要などが書かれていて、とても面白かったです。
法律を知るということで、普段の臨床の実用的な面に役に立つのはもちろんですが、当時の時代精神が法律に現れていたり、あるいは逆に法律によって我々の時代精神が規制されたりするようすが、行間から読み取れるのです。
すなわち、法律というのはその時代の人々の集合的な心が結晶したものだという側面もあるように思え、心理学を学ぶものとしてはやはりこちらの側面のほうに魅力を感じざるをえません。
「関係行政論」という科目にはいままであまり興味を持てなかったのですが、この機会に学ぶことができてよかったと思いました。なんでも興味を持って取り組んでみると、おもしろいものなのかもしれません。

自由意思

近年の脳科学における進歩には目覚ましいものがあります。
この進歩から人類は大きな恩恵を得ていることは間違いないのですが、同時に大きな謎を突き付けられてもいるようです。
その一つが、ベンジャミン・リベットの行った実験です。
この実験は、被検者に、彼らの好きなタイミングで指を動かしてもらう、というものです。
すると、彼らが報告した、指を動かそうと思ったタイミングよりも、0.5秒も前に、脳波の動きがみられることがわかりました。
つまり、この実験で突き付けられた謎とは、人が自由意思を持つ前に、すでに脳は活動しているということです。人は自分で意思を持ったと感じていますが、それは実は脳によって規定されている、と言い換えてもいいでしょう。
ではこの、自由意思の前に現れる脳の活動は、なにに引き起こされたものなのでしょうか。どうもここには、合理的な説明はつけられそうもありません。
「自由意思」のような、純粋に心に起こる現象と、物理的な脳との関係を考えていくと、リベットの実験のような、人間の思考の限界を超えるような現象にどうしても突き当たります。
心と脳とが関係していることは明らかなので、心理学は脳科学で得られた知見を無視するわけにはいきません。それでもやはり、こうした実験を目の当たりにすると、心の世界の法則は、物理的な世界の法則だけでは説明できないのではないか、と思わざるを得ないのです。

ひきこもり

ひきこもりとは、厚生労働省の定義によれば、「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」のことを指します。現在日本においてこの定義に当てはまる人は、推定で、60万とも100万ともいわれています。
このひきこもりは、日本に特有の問題であるようです。臨床の現場にいると、もちろんひきこもりについて考えさせられることは多くあります。そんななかで先日、マイケル・ジーレンガーという、ジャーナリストが書いた本を読みました。
彼は、日本の社会でひきこもる人を、とてもクリエイティブな人だとみなしています。他人と違った価値観を持ち、独自の道を歩もうとする、というのです。ただ、日本の社会はこうした人たちを協調性のない者とみなし、排除しようとする。それゆえ彼らはひきこもらざるを得ないのだ、というわけです。
実際、臨床現場を訪れるひきこもりのかたや、その親御さんと話していると、ジーレンガーの説にはうなずけるところが多々あります。ひきこもる人々は、社会の矛盾を鋭く突くような感受性に優れているようなのです。彼らはときに、海外に行きたいと希望を語り、そしてそれを実行に移すこともあります。そして実際日本を出ると、劇的に回復し、ひきこもりから脱したりするのです。
このようなことを目にすると、ひきこもりという現象は、なにかを我々に訴えかけようとしているのではないか、と思えてきます。しばしば引用されるユングの言葉に、次のようなものがあります。
「神経症が自我の誤った態度を片づけた時にのみ、神経症は真に除去される。我々が神経症を癒すのではない。神経症が我々を癒すのだ」
我々がひきこもりを解決するのではなく、我々がひきこもりによって我々の態度を変えるとき、はじめてひきこもりは解消されるのかもしれません。

舞台としての主体

「たしかにわれは手足をもてり。さまざまの速なる現象去来す。この舞台をわれと名づくるものは名づけよ。」
上記は宮澤賢治が保阪嘉内へ宛てた書簡の一節です。宮澤賢治はみずからの詩を「心像スケッチ」と名付けていますが、この一節は、賢治にとって、みずからの身体は心像、つまりどこからともなくイメージが現れる舞台にすぎない、ということを示しているのでしょう。
この賢治のあり方は、主体というもののあり方を考えさせます。現代において、主体というのは、自分の人生の主人公のように捉えられています。自分がどのように社会とうまく関わるか、どのように他者を自分の希望どおりに動かすか、どのように自分の利益を最大にするか、どこで妥協をするか、などなど。ただ、当たり前ですが、いつでも物事が都合よく進むわけではありません。その場合には、自分の力のなさに歯噛みしたり、他者を恨んだり、身の不幸を嘆いたりすることもあるかもしれません。
こうしたことから抜け出す場合には、賢治のような「自分を舞台としてとらえる」あり方は参考になるかもしれません。
精神病理学の大家である木村敏先生は、日本語にある「中動態」というものに注目しています。これはたとえば、能動態の「見る」や「聞く」という動詞に対して、「見える」「聞こえる」といった語法です。自分を舞台としてとらえる語法であるといえるでしょう。こうした中動態というのは、主客をはっきりさせる西洋語にはないそうです。こうしたことから考えると、日本人にとって、自分を舞台とみなすあり方は、むしろ自然なのかもしれません。

心の傷を癒すには

先日、イギリスのウィリアム王子がインタビューで、メンタルヘルスの大切さを訴えたそうです。ウィリアム王子に限らず、イギリス王室では、ヘンリー王子やキャサリン妃もメンタルヘルスのチャリティーキャンペーンに参加したりしていて、イギリスでは日本よりもメンタルヘルスに真剣に取り組もうとする姿勢があるのかもしれません。

さて、ウィリアム王子はこのインタビューのなかで、「心の傷を語ることの重要性」を指摘しています。王子自身、このことによって母であるダイアナ妃の死を乗り越えることができたといいます。

心の傷によって引き起こされるものの代表的なものに、PTSDと解離性障害があります。

PTSDは、歴史的にはベトナム戦争帰還兵が、①過覚醒による不眠、②戦争を思い出させるような場所や物の回避、③戦争体験のフラッシュバック、といった症状を示したことから注目されるようになったもので、過去の心の傷をきっかけとして発症します。

解離性障害は、現実感がなくなったり、ある特定の時期の記憶が想起不能になったり、あるいは人格がその時々で入れ替わるいわゆる多重人格になったりします。解離性障害の場合には、心の傷が明確でなくても上記のような症状があれば解離性障害と診断されますが、それでも解離性障害の背後には、多くの場合心の傷が隠されています。

ウィリアム王子のインタビューでは、心の傷を語ることが重要とされていましたが、当然、傷を語ればそれで治るというものではありません。語るためには、語っても安全だと思わせるような、信頼感に満たされた場所が必要です。さもなければ、傷を語ることによって、さらに傷をえぐられるようなことになりかねません。

PTSDや解離性障害において、「心の傷を語ることの重要性」とは、「心の傷を安心して語れる場所の重要性」と言い換えてもいいかもしれません。この、安全な場所さえあれば、語るか語らないかはむしろあまり重要ではないのだろうと思います。私も心理療法を実践するものとして、安心できる場所を提供できれば、と日々思っています。